日本映画発掘記録

配信で見れる”あの頃日本映画”を掘り起こしています。

『銀座カンカン娘』|ネタバレ|B面

 

発掘記録(A面)はこちら。

angie-stars.hatenablog.com

 

注意

B面は、私の分析エッセイです。

ネタバレを含むので、ご注意ください。

発掘記録(A面)→本編視聴→エッセイ(B面)という流れをお勧めします。

 

エッセイ

ハッピーな1時間、コミカルな1時間、その終わりは、ハッピーエバーアフター、二人が汽車に乗って見送られるとか、もう一回四人で歌うとか、そういう終わり方をするのだと、てっきり思い込んでいました。それが文法通りに思えたからです。でも、でも、そんな私の陳腐な予想を、すんごい勢いで裏切りました。この作品、ただもんじゃないな!

 

そう、最後に出てくるのが輝きを取り戻したお父さん。落語を餞別に、いつまでもどこまでも続いていく。繰り返された「銀座カンカン娘」のリフを忘れてしまうほど、息のつく暇もないほど流暢に繰り広げられる落語は、まさに音楽だった。芸術だった…!落語なんて『の・ようなもの』以外に興味がなかった私にとって、この発見は少々ばかり衝撃的なものである。軽快な音楽(服部良一作曲)によって彩られたミュージカルである本作が、落語で幕を閉じるということ自体が、本当に突飛なアイディア+挑戦的な意味合いを持つアイディアであるのです。

 

加えて、「終」マークに続く形で、出囃子(ではなくて退場の囃子?)がなるのです。「終」で席を立ち上がる観客の退場ソングでもあるのです。ハリウッド形式のミュージカルを続けてきた本作品にとって、このような締めくくり方は、政治的な意味合いすら持ってしまうように思える。そして芸術の意味を拡張します。落語だって音楽だもんね、ミュージカルだもんね!

 

それ以外にもこの作品は面白い点がいくつかあります。

一つ目は擬似家族的共同体が歌によって結ばれていること。主要登場人物はほぼ一つ屋根の下に暮らしながら、血のつながり(家族の定義)はない。冒頭のお母さん?のセリフからわかるように、戦争孤児であることが示される。つまり、戦争が大きく影を落としているということだ。そんな彼らは歌うこと、絵を描くことによって、擬似的であろうと家族として家を形成している。違和感なしに食卓を囲む景色はこの時代珍しくなかったのかもしれない。

 

もう一つは、彼らが住む場所だ。おそらく西東京、それなりの自然と住宅街で、バスに乗って銀座へと行く。その移動のシーンこそ描かれていないから、彼らが「どこでもドア」使ったみたいな勢いの瞬間移動。それがトポロジカルな問題提起を全く覆い隠してしまっている、それが本当にいい。だって全部、セットだもんね!

 

高峰秀子さんの伸びやかな声に、笠置シヅ子の独特の歌声が重なり合って、なんとも言えぬ多幸感。よかったなあ、少し泣きそうになっちゃった、くらい幸せな響きです。

華やかとは言い難いけど...|『銀座カンカン娘』|A面

楽しい1時間を過ごしたいなら、これです。

 

 

あらすじ

声楽家と画家を目指す若い女性の居候二人組。一文無しのため職探しに出かけると、映画のロケ隊に出会い、そこから話は進んで・・・。

 

発掘結果(1)日本映画のミュージカル!

日本映画にミュージカルは似合わない。そもそもオペレッタを引き継ぐミュージカルは、その発祥から西洋的なものだった。

なんてお思いの皆さん、意外とそうでもないのです。

この発掘記録にも仲間入りさせたい、いくつかの名作国産ミュージカルが世にはあるのです。

例えば1939年公開の『鴛鴦歌合戦』、1964年公開の『ああ爆弾』がいいところです。どちらも個性を持ちながら、大傑作となっています。

 

この作品『銀座カンカン娘』は、日本映画のミュージカルとしては有名なところでしょうか。主題歌(服部良一作曲)も有名ですね。

観てびっくりしました、あまりにもミュージカル的だったということに!

 

そもそもミュージカルというのは定義が難しく、バックステージ系は突然歌い出すなんてことはないのです。だけど、突然歌い出すことこそ、ミュージカルの醍醐味!(じゃありません?)この作品にはそんな醍醐味もあれば、高峰秀子さんと笠置シズ子のパフォーマンスを堪能することもできます。最高です。

 

加えて、これはネタバレになるので大声では言えませんが、ミュージカルの定義を揺るがすエンディングに大感動です!!注目!

 

発掘結果(2)笠置シズ子さん!

これに尽きます。もちろん主演は高峰秀子さんなのですが、笠置シズ子さんの存在感が半端ありません。

「東京ブギウギ」などの大ヒット曲を持つ彼女ですが、話す姿、演技する姿は初めて観ました。

細い体でしゃがれた声でコテコテの大阪弁を話す彼女が、ステージの上では伸びやかに歌い踊る姿に、とても新鮮な驚きを覚えます。

笠置シズ子さんは特に大きな演技もせず、出番も少ないですが、彼女の存在感は、主演を覆い隠してしまうほどのものを感じました。

ちなみに、流しのトランペット吹を演じた喜劇役者の岸井明さんも、コミカルでとてもいい感じ。三人揃った時、『お熱いのがお好き』を思い出しました。三人組はいつの時代もピタッとハマりますね。

そしてそして、落語には疎い私、あまり何もかけませんが、古今亭志ん生 (5代目)さんがお父さん役で出演、”落語家・桜亭新笑役で出演し、短縮版だが「替り目」を7分近く演じている(また、一人で「疝気の虫」を稽古しているシーンもある)”(wikiより)とのことです。

 

発掘結果(3)1時間に凝縮される戦後の日本

この作品は1949年の公開です。

この時代の作品の中でも、とびきり華やかな作品に思えるかもしれません。なんせ、タイトルに銀座なんてついているし...

と思っていましたが、実は全然違いました。

華やかとは言い難いのです。この作品。最も、物語設定から戦後の日本が凝縮されているのです。

高峰秀子さんは戦争孤児という設定になっています。笠置シヅ子さんはよくわかりませんが、職もなく住むところもないという有様です。加えて、彼女たちが身を寄せる一家は不況で食に困ったり、立退を宣告されたりします。

また、彼女たちが住むのは銀座ではなく、緑豊かな郊外なのです。銀座というタイトルからは想像がつかないほど、華やかとは言い難い物語なのです。

そこがこの作品のポイント、戦後すぐの日本の一つの断片を、私は観た気がします。都心でバラック暮らし(黒澤の『酔いどれ天使』など)上流階級で豪邸住まい(小津作品)など40年代後半の作品は様々な状況が映し出されています。この作品はその中でも、また異なる存在感を発揮しますね。予想外でした!

 

発掘結果 まとめの一言

ただのミュージカル映画じゃない、濃密な1時間!でも楽しい!

 

作品情報・配信情報

『銀座カンカン娘』

1949年 製作 島耕二 監督

 

Netflixで配信中

 

本編を見た後は

分析エッセイ(B面)もどうぞ!

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『江分利満氏の優雅な日常』|ネタバレ|B面

発掘記録(A面)はこちら。

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注意

B面は、私の分析エッセイです。

ネタバレを含むので、ご注意ください。

発掘記録(A面)→本編視聴→エッセイ(B面)という流れをお勧めします。

 

エッセイ

とにかく面白い、とにかく天才的。冒頭の歌と運動のシークエンスで、これが傑作とわかる!ここまでソフィスティケートにまとめた前半の、前衛的な演出の数々に感嘆しながら(岡本喜八のポテンシャルが凄すぎる)、戦争という大きな核心に突き進んでいく後半。このコントラストがどこまでも素晴らしいし、ここができるのが、映画ならではでもあるのだと思ってはさらに感動してくるのでした。

 

語ること、この映画のほとんどは江分利氏の語りで埋め尽くされている。後半はそれにうんざりして変えるタイミングを失って風邪までひきそうになるくらい、彼の饒舌すぎる止まらない語りによって、この映画は成り立っている。しかし、この語りは一種類ではなく、数種類の語りがあるように思える。

 

まず第一に、それは彼の文章を音読するという意味での、語りである。この映画の原作は小説であるため、この小説の文章がそのまま使われたのかもしれない。この語りはとても面白いのに加えて、語りに合わせる映像も、多種多様、挑戦的な試みのあるものになっていたのが、なんともこの作品をポップにしている。例えば、ジャンプカット、スローモーションという技術的な側面。例えば、舞台的なセッティングに、カメラ目線カット、ジャンプ編集(時間軸を守らない)という遊び心ある側面。衣服の説明をするために、トランクス姿で家の前を歩かせるという突飛な演出ももちろん最高だったけれども、柳原良平さんのアニメーションもいい。(殺人狂時代のオープニングもそうだった!性別記号による結婚式も最高だった…)このような挑戦的、実験的、前衛的な試みが、文章を読み上げるという音読から、一つの語りに仕立て上げることが可能になるのだった。

 

次に、彼の心の声としての語りである。とりわけ戦争に対しての長々とした語りは、文章によるものでもなければ、彼の人生を説明するナレーション的な語りでもない。つまりこの語りは、正真正銘の、生の声なのである。第一の語りが、一応読者を意識した語りであるのに対して、この第二の語りは、なに偽りのない、語りなのである。言い換えれば、それを「告白」と呼ぶこともできるかもしれない。もっとも、この告白は泥酔状態の江分利氏から発せられるため、それはどこかコミカルにも描かれている。しかし、第一の語りと異なり、語りに合わせられる映像は全くない。映し出されるのは、退屈そうな若者と、そして、熱く悲しく、我を失いながら、語気を強める江分利氏だけだ。この告白は、あまりにも、あまりにも、赤裸々だ。神宮球場にいた大学生の半分は死んでしまった…!ちなみに、この彼の心の声が、退屈そうな若者と一瞬だけ響き合う時がある。それが、大学生は戦争を止められたか?という語りである。若者は、安保ですら無理だった、とつぶやく。そして互いに、できなかった、と下を向くのだった。昭和は戦争の時代だ、戦争で金儲けをする時代だ。しかし、江分利は言う。「もう勘弁してくれ」と。

 

最後に、名もなき女性の語りだ。これは江分利氏の語りではないが、強烈なまで江分利氏の語りがあった後に、この名もなき女性の、しかも戦中の、兵士にあてた嘆きの手紙の語りは、この作品にさらに強烈に響き渡る。この女性の語りは、江分利の妻が読み上げる。この語りは、江分利の妻の苦しみ(語られることのない!)とも重なれば、江分利の戦争体験とも結びつき、そして、日本、世界、歴史という大きな枠組みで、無数の名もなき女性の語りが融合しあうのだ。強調された戦争という記憶と、それを青春と呼ばなければいけない悲しみの中に、名もなき女性の語りと、江分利の語りが響あう。私は思わず涙した。この涙は全く共感から起因するものではない。語りというものの強烈なエネルギーに、圧倒されたのであった。

 

正直に書くと、私はもう一つだけ涙を流した。江分利は最初、なんだか面白くないんだよな、と嘆く。いろんなことがある人生だけど、どこかパッとしない。しかし、ひょんなことから書いた小説が直木賞を取ったとき(本当にこの本は直木賞を取っている)、私はポロリと泣いた。奥さんも子供も、みんな泣いていた。江分利は呆然と立っていた。彼のことを断片的にしか見ていないけど、置いてけぼりで、酒癖が悪い彼に、思わぬ転機がやってきたというのは、どこか『キネマの神様』のエンディングとも似ている。

 

ああ、細かなことを色々書いたけど、結局は面白い、に尽きる。江分利氏の語りは、その言葉遣いを含め、テンポよく面白い。愛らしさすらある。面白かった。そして、岡本喜八のキレすぎる映像の数々に、魔法がかかったかのように、私は呆然としてしまった。記録したい面白い演出の数々!最高です。喜劇は重いテーマの中になければいけないなと改めて感じる作品だ。心の奥底から、涙も笑いもやってくる!

 

驚きと確信|『江分利満氏の優雅な生活』|A面

開始3秒で確信する、これは面白いぞと。

 

 

あらすじ

昭和30年代後半、大手洋酒メーカーに勤めるサラリーマン江分利満(小林桂樹)、36歳。何をやってもおもしろくない無気力な日々が続く中、ふとしたことで彼は小説を書くことになり、戦争のこと、父のこと、妻子のことなど、平凡だが一生懸命な自分たちの人生を綴っていく。やがて小説は直木賞を受賞するのだが...。

 

発掘結果(1)昭和を理解する。

今となっては、非難の対象となってしまった「昭和」。

働き方、考え方が古い=「昭和」という方程式が定着したのはいつからでしょう。

私のような23歳も、やっぱりそう思います。今に「昭和」の価値観はいらない!と思うのです。

しかしですね、敵のことを何にも知らずに、ただ非難するのもどうなんでしょう、なんて思ったりするのです。

まずは敵を理解するのがいいのです。そのためには、この映画なのです。

 

この作品はいくつかの昭和ポイントがありますが、いくつかの驚きの昭和ポイントもあるのです。

働き方、考え方が「古い」のは、朝まで若い後輩を飲みから解放しない、主人公 江分利氏の振る舞いからよくわかります。

しかし、その中で江分利氏が語ることは、意外にも、悲しみの「昭和」史だったりするのです。

すっかり「昭和」は、戦後の話だと思っていた私は、偶然にも必然にも気づくのです。そうか、「昭和」って、戦前も含むのだなと。ああ、「昭和」は「戦争」の時代だったのだな、と。

古臭く見える、批判の対象の「昭和」だけど、それだけで「昭和」は語るべきではないのです。それを、江分利氏は教えてくれます。

 

発掘結果(2)天才を確信する。

監督の岡本喜八は、他の作品でも私の胸をギュンと掴んで離しません。

なので、他の岡本作品を観たことある人はもちろん、岡本喜八入門としても

最高の作品になっております。

そうです、岡本喜八は天才なのです、確信いたします。

 

なぜ天才なのか!それは「映画的遊び心」に溢れていることです。

例えば、ジャンプカット、スローモーション、舞台的なセッティング、カメラ目線ショット、そしてアニメーション...などなど。

今となっては普通に思えるかもしれないけれど、東宝のプログラムピクチャーとしてはかなり画期的/挑戦的な試みではないのでしょうか。

それもそう、この作品の思いもよらぬ「遊び」によって、上映はヒットせず、打ち切りとなってしまったそう。

岡本喜八は他にも『殺人狂時代』というカルト作品を生み出していますが、この作品もその系譜に並びます。(最高峰は『近頃なぜかチャールストン』です!)

 

この「遊び心」は2021年でも全く色褪せない!こんなに凄い、あんなに凄い、マジカルな映像に驚きました。発掘しがいがあるネ。

 

発掘結果(3)江分利氏に癒される。

癒されるなんて書いたら怒られる気がするような。

でも私はなぜか、この「昭和おじさん」江分利氏をものすごく愛らしく感じてしまったのです。

酒が入ると話が止まらなくなる。会社では除け者にされている。奥さんが支えてくれる。スーツは二着しか持っていない。悲しい記憶がある。死にたいと思っていた。だけど、なんだかんだで幸せ...?

 

江分利氏を演じた小林桂樹さんが良いのか、それとも江分利満氏というキャラそのものが良いのか、なんなのか。

この癒しの正体は、愛らしい気持ちの正体は、なんなのか!どこか憧憬に近いものがあるような気もします。

 

発掘結果 まとめの一言

新しい!クラシック日本映画ってつまらないでしょう?モノクロ映画はちょっと...っていう概念をぐるりと変えます。驚きと、確信!

 

作品情報・配信情報

『江分利満氏の優雅な日常』

製作年:1963年

監督:岡本喜八

 

Netflixで配信中

 

本編を見た後は

分析エッセイ(B面)もどうぞ!

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ネタバレ |『さらば愛しき大地』|B面

発掘記録(A面)はこちら。

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注意

B面は、私の分析エッセイです。

ネタバレを含むので、ご注意ください。

発掘記録(A面)→本編視聴→エッセイ(B面)という流れをお勧めします。

 

エッセイ

彼は赦し導かれるか?

 

 わたしは後半から、ずっとそのことだけを考えていた。周囲の人間の甘さを受けて、彼はどんどん落ちていく。そんな彼を、赦すものはいるのか?そして、導かれるのだろうか。

 念頭にあるのは、ドストエフスキーの「罪と罰」だ。すなわち「的外しと導き」である。これが、彼に通用するのか…いや、通用してほしい。なんとか、この最低最悪な彼が、赦されてほしいと願った。なんとか、このどうしようもない彼が、導かれてほしいと思った。もちろん、丸く収まるはずはない。だけど、その中でも、何かに赦しを見いだしたかった。いつのまにか、彼の問題がわたしの問題になってしまっていた。わたしは願った。彼が希望の光をつかむよう。わたしは願った。彼がこれ以上落ちぬよう。

 

 わたしの願いは、思いもよらぬ形で叶うことになる。彼を赦したのは、大地だった… 大地、田の緑、風、雨…それらが、彼を受け止めたのだった。この時はじめて「愛しき大地」の意味がわかる。大地に彼は赦された。唯一、彼は大地に受け止められた。彼はじっと、じっと田を見つめる。カメラも彼の視点になり、じっと激しく揺れる木々を映す。この時だけ、彼は赦されていた。彼は何かに導かれようとしていた。どこかに行けそうな、いい方向に進めそうな予感がした。この時だけだ、この時だけ。

 

 家の侘しさ。死の尊さ。開発の疎ましさ。東京の遠さ。夫婦の脆さ。親の寂しさ。そして、子の大きさ。さまざまなテーマが駆け巡る。とりわけ、子どもと親に関しては、誰しもが共通して問題としていた。それが問題になるのは、茨城という地の、封鎖的な村々に暮らすという宿命がゆえである。それをたやすく破ることすら叶わない人々の、執着心とも言える暮らしに、子供も同時に未来を失っていく。そして、破壊の連鎖は繰り返されていく…

 わたしはこの、どうしようもないほど辛く悲しい物語に、やはり大地という視点を与えたく思う。そうすることで、もちろん彼が赦されたように、他の人々全員も導かれるように思うからだ。でもそれは単純な話ではない。農業で生活する家族にとって、自然は頼りになるものでありながらも、搾取するものでもある。そうした不均衡な関係性の中、大地はさまざまに形を変える。工場ができ、土地を削って砂を売り、湖は子供を飲み込む。大地と人々の関係性は、常に変化していくのだった。人間同士も、また同じく。

 

 秋吉久美子が歌う、「ひとり上手」。幸雄を気にしながらも、客に愛想を振り向く彼女の下手さが、あまりにも切なく、あまりにも美しい。一方で、彼女が家で見せる表情は、とても小さい。子供以上に小さな背中をしている。そして彼女は知っている。幸雄に対する「甘さ」が幸雄を滅ぼすことを、しっている。ここで彼女は自らの罪を背負わなければならない。幸雄のように背中に背負うのではなく、心の中に仕舞い込むのだった。最後まで彼女は幸雄に甘かった。その甘さが、幸雄を余計に駆り立てることも知らずに…この悲劇をどう捉えよう。順子が悪いとは思えないけれど、悪いとか悪くないとか、そういった関係では言い尽くせないものがある。なぜなら、彼女は彼に、甘さを与えてしまったのだから…そのことを、どう考えるのか。

 

 なによりも魅力的だったのは、文江だ。演技も含めて、本当に素晴らしかった。子供を失う悲しみを、抑える悲しみ。それ以上に、愛されない悲しみ。八方塞がりの中、彼女の悲しみがまた大地に溶けていく。鳥の羽が舞う様子を見つめる文江には、なんだってわかってしまう。この話の中で、いちばんタフで、いちばん切ない人物であった。もちろん、周辺の人物も申し分なく、素晴らしい。

 

 ここまでクオリティの高い映画が存在していることは私をさらに映画に駆り立てる。ここまで暗いものをフィルムに刻まれたものを見つめるという行為について…行き場ない悲しみ、もう見たくないような暗さを飲み込むことについて…わたしはもっと考えなくてはいけない。もっと目を見開いて、受け入れなくてはならないだろう。そんな契機になる映画だった。

 

赦しの先に|『さらば愛しき大地』|A面

初回からハードな作品です。

 

 

 

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あらすじ

柳町光男監督がある家族の崩壊を描くドラマ。茨城県の農家・山沢家。ダンプの運転手として一家を支える幸雄は、ふたりの息子を突然失った悲しみから荒れた生活を送っていた。そんな中、幸雄は弟の恋人だった順子と恋仲になるが…。*1

発掘結果(1)赦しを問うストーリー

 

この作品の一番の魅力は、そのストーリーにあります。あらすじから、暗さがわかるでしょうか。とっても暗いです。心が抉られます。

 

主人公の幸雄は、罪人なのか、はたまた、犠牲者なのか。そして、そんな彼は赦されるのだろうか。

 

赦されたとしても、それは誰に、どうやって?そもそも、赦しとはなんだろうか。

私たちは、倫理観や規範、常識を崩しながら、彼の赦しを問うことになります。

 

圧倒的な人間の運命を感じながら、どうしようもなさの中に、赦しの先を感じることはできるでしょうか。

 

赦しの先とは、どんな景色でしょうか。

 

発掘結果(2)俳優たちの熱演

 

熱演なんて言うと、言葉が足りない感じがします。

主人公を演じたのは、根津甚八さん。主人公を愛してしまう女性に、秋吉久美子さんです。

 

根津さんが素晴らしいのは言うまでもありません。秋吉さんがまた、とても良いパトーナーシップを発揮しているのです。

 

彼女の切なさは、その背中が体現しています。スナックで歌う、中島みゆき「ひとり上手」。決して上手くはない歌声に、涙が止まりません。

 

根津さんの狂気は、誰も分かってはいけないと思います。根津さん自身に何かが憑依したかのような、真っ黒な瞳に注目です。

 

発掘結果(3)鹿島の風景 開発を問う

 

舞台となり、ロケ地となったのは、茨城県の鹿島地方です。ここは、監督である柳町光男の生まれ故郷でもあります。

 

工場地帯の開発が大規模に行われる中、小規模ながらに続けられる稲作。開発と自然破壊、地方の貧困、そして、衰退...。

 

そうです、撮影地となり、舞台になった時代1980年代初頭において、鹿島の開発は終了したのです。(1984年に開発収束宣言が出されている。)

 

映された風景は、どこか寂しい。それは、まさに衰退を迎えた工業地帯のリアリティそのものを感じてしまうからなのかもしれません。

 

どこを見渡しても見える工場の煙突。稲穂が育ち、刈られていく季節の循環。この二つのコントラストが、鹿島の風景を作り出します。

 

この風景があるからこそ、ストーリーも、俳優も、生きてくるのです。

風景に心惹かれてみるのも、映画の一つの楽しみであります。

 

発掘結果 まとめの一言

 

できるなら、掘り起こしたくはなかったね。と思うくらい、残酷な観ごこちです。

でも、私の宝物になりました。映画を観るということは、楽しいだけじゃないんですね。

 

作品情報・配信情報

 

さらば愛しき大地

制作年:1982年 

監督:柳町光男

 

Amazon Prime Videoで配信中

Amazon.co.jp: さらば愛しき大地を観る | Prime Video

 

本編を見たあとは

分析エッセイ(B面)もどうぞ。

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*1:キネマ旬報社 データベース

面白い映画を掘り起こす|ご挨拶

 

はじめに

 

このブログは、映画に人生を狂わされた大学院生が、面白い映画を掘り起こすものです。

そう、このブログのコンセプトは、ズバリ、”掘り起こす” ”発掘する” ことです。

 

なんだか私は昔から、便利すぎるものが苦手だったりするのです。

配信で、世の中、望めばなんでも観れる時代。一見とても便利に見えますね。

 

「これ!観たかったやつ!」

 

まずは気になっていた新作を観て、話題の作品を観て、そのあとは視聴履歴からおすすめされたものを観ていく。

インスタやTwitterで、簡単におすすめ映画を調べることもあるかもしれない。

 

でも、一通り観終わると、途端につまらなくなる。面白くない作品ばかり当たるようになってくる。

私、何が観たいの?何が面白いの?なんて変に頭を悩ませて、そんで、次第に映画から離れていく。ドラマもアニメも見ない人は、配信サービスの退会を考えるかもしれない...。

 

でもここで、諦めるなんて勿体無いです。勿体なさすぎます。

そう、そう、この世には面白い映画がゴロゴロしてるのです!!

 

便利な世の中だけども、いや、便利な世の中だからこそ!面白い作品はどんどん埋もれてしまいます。

この、面白い作品を掘り起こしていくのが、このブログの目的です。

 

言い換えれば、このブログは、私の発掘作業記録なんです。

 

面白い映画って?

 

さて、さっきから言っている、面白い作品ってなんでしょうね。

人それぞれなのかな。私が面白いと思っても、あなたは面白いとは思わない、かもしれない。

 

だからこそ、この発掘作業記録は、初めから基準を用意しています。

私が基本的に面白いと思う、好きだと思う、興味のあるものは、日本映画です。

それも、20世紀の作品群です。

 

私は他の方々と同じよう、ハリウッド映画を観て映画を学び育ちましたが、ある時から突然、日本映画が大好きになってしまったのです。

 

配信サービスによってばらつきはありますが、日本映画のアクセスはかなり良好です。

黒澤、小津という傑作と呼ばれる作品はもちろん、日活ロマンポルノシリーズや東映の不良シリーズなど、プログラムピクチャーと呼ばれるもの、さらに独立プロによるアート系の作品など、かなりの数が観れるようになっています。

 

発掘環境としては、好調なコンディションです。本当に、このラッキーな事実に気づいている人はどれだけいるのか...。

結論が遅れました。

 

このブログでは、20世紀(主に戦後)の日本映画を、掘り起こします

 

どうぞよろしく。

 

このブログの使い方

 

このブログは、A面とB面に分かれています

 

A面は、発掘記録です。

ネタバレなしで、作品のポイントを3〜4つに分けて解説。

配信情報も記載します。

 

B面は、考察エッセイです。

ネタバレありで、私の感想や意見など。時々批評もします。

 

A面→本編視聴→B面という流れをお勧めします。