日本映画発掘記録

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ネタバレ |『さらば愛しき大地』|B面

発掘記録(A面)はこちら。

angie-stars.hatenablog.com

 

注意

B面は、私の分析エッセイです。

ネタバレを含むので、ご注意ください。

発掘記録(A面)→本編視聴→エッセイ(B面)という流れをお勧めします。

 

エッセイ

彼は赦し導かれるか?

 

 わたしは後半から、ずっとそのことだけを考えていた。周囲の人間の甘さを受けて、彼はどんどん落ちていく。そんな彼を、赦すものはいるのか?そして、導かれるのだろうか。

 念頭にあるのは、ドストエフスキーの「罪と罰」だ。すなわち「的外しと導き」である。これが、彼に通用するのか…いや、通用してほしい。なんとか、この最低最悪な彼が、赦されてほしいと願った。なんとか、このどうしようもない彼が、導かれてほしいと思った。もちろん、丸く収まるはずはない。だけど、その中でも、何かに赦しを見いだしたかった。いつのまにか、彼の問題がわたしの問題になってしまっていた。わたしは願った。彼が希望の光をつかむよう。わたしは願った。彼がこれ以上落ちぬよう。

 

 わたしの願いは、思いもよらぬ形で叶うことになる。彼を赦したのは、大地だった… 大地、田の緑、風、雨…それらが、彼を受け止めたのだった。この時はじめて「愛しき大地」の意味がわかる。大地に彼は赦された。唯一、彼は大地に受け止められた。彼はじっと、じっと田を見つめる。カメラも彼の視点になり、じっと激しく揺れる木々を映す。この時だけ、彼は赦されていた。彼は何かに導かれようとしていた。どこかに行けそうな、いい方向に進めそうな予感がした。この時だけだ、この時だけ。

 

 家の侘しさ。死の尊さ。開発の疎ましさ。東京の遠さ。夫婦の脆さ。親の寂しさ。そして、子の大きさ。さまざまなテーマが駆け巡る。とりわけ、子どもと親に関しては、誰しもが共通して問題としていた。それが問題になるのは、茨城という地の、封鎖的な村々に暮らすという宿命がゆえである。それをたやすく破ることすら叶わない人々の、執着心とも言える暮らしに、子供も同時に未来を失っていく。そして、破壊の連鎖は繰り返されていく…

 わたしはこの、どうしようもないほど辛く悲しい物語に、やはり大地という視点を与えたく思う。そうすることで、もちろん彼が赦されたように、他の人々全員も導かれるように思うからだ。でもそれは単純な話ではない。農業で生活する家族にとって、自然は頼りになるものでありながらも、搾取するものでもある。そうした不均衡な関係性の中、大地はさまざまに形を変える。工場ができ、土地を削って砂を売り、湖は子供を飲み込む。大地と人々の関係性は、常に変化していくのだった。人間同士も、また同じく。

 

 秋吉久美子が歌う、「ひとり上手」。幸雄を気にしながらも、客に愛想を振り向く彼女の下手さが、あまりにも切なく、あまりにも美しい。一方で、彼女が家で見せる表情は、とても小さい。子供以上に小さな背中をしている。そして彼女は知っている。幸雄に対する「甘さ」が幸雄を滅ぼすことを、しっている。ここで彼女は自らの罪を背負わなければならない。幸雄のように背中に背負うのではなく、心の中に仕舞い込むのだった。最後まで彼女は幸雄に甘かった。その甘さが、幸雄を余計に駆り立てることも知らずに…この悲劇をどう捉えよう。順子が悪いとは思えないけれど、悪いとか悪くないとか、そういった関係では言い尽くせないものがある。なぜなら、彼女は彼に、甘さを与えてしまったのだから…そのことを、どう考えるのか。

 

 なによりも魅力的だったのは、文江だ。演技も含めて、本当に素晴らしかった。子供を失う悲しみを、抑える悲しみ。それ以上に、愛されない悲しみ。八方塞がりの中、彼女の悲しみがまた大地に溶けていく。鳥の羽が舞う様子を見つめる文江には、なんだってわかってしまう。この話の中で、いちばんタフで、いちばん切ない人物であった。もちろん、周辺の人物も申し分なく、素晴らしい。

 

 ここまでクオリティの高い映画が存在していることは私をさらに映画に駆り立てる。ここまで暗いものをフィルムに刻まれたものを見つめるという行為について…行き場ない悲しみ、もう見たくないような暗さを飲み込むことについて…わたしはもっと考えなくてはいけない。もっと目を見開いて、受け入れなくてはならないだろう。そんな契機になる映画だった。